Webmaster's Research in the Past  イノベーションとマーケティング(1)     2014.7.6改訂終了

 

分岐点@ 中国研究の一区切りとアメリカ留学

 

 中国市場戦略に関する研究がひとつの区切りを迎えたとき,わたしにはひとつの疑問が浮かんできました。むしろ,将来に対する不安と言った方が良いかもしれません。
 1つに,その頃から「中国マーケティングの専門家」というかたちでマスメディアなどで紹介されることが多くなりました。講演会でもそうですし,東洋経済やエコノミストなど,メジャーな経済雑誌に寄稿すると,タイトルにそのようなコピーが書かれるのです。これが逆に不安をもたらすようになったのです。それは「中国マーケティング」を越えることができなくなるのではないか,という不安でした。
 2つめに,なるほど中国市場を新興国市場のひとつとして捉えれば,対象となるのは中国だけではなくなります。現に,その後はインドやブラジルなど,いくつかの国が新興国として位置づけられ,そのビジネスチャンスがクローズアップされました。しかし,うがった見方をすると,「自分はこういう世間の動きに引っ張られるように,まるで渡り鳥のようにいろんな国でのマーケティングを研究していくのだろうか?」―そのスタンスに,そしてその可能性に不安を感じたのです。
 

 そんな2000年頃,わたしに海外留学の機会がやってきました。
 どこでどのような勉強をさせてもらうか。4つの案を考えました。@アメリカ西海岸のS大学,ここでM教授のもと,競争戦略の勉強をさせてもらうこと。A同東海岸のC大学,ここでB教授のもと,グローバル・マーケティングの勉強をさせてもらうこと。B同東海岸のJ大学,ここでJ教授のもと,グローバル・マーケティングの勉強をさせてもらうこと。C同東海岸のN大学,ここでT教授のもと,グローバル・ビジネスの勉強をさせてもらうこと。
 このうち,@の大学からは,すでに客員研究員がたくさんいて,研究室など,必要な施設の受け入れができないということでお断りの連絡をもらいました。ですが,最終的に,A〜Cまでは受入可能の返事をいただくことができました。「最終的に」という書き方になるのは,返事が返ってくるまでに時間差があったためです。
 最初に返事が来たのはCでした。直後にBから返事が来ました。そのときにはどこに行くかの申請を出すタイムリミットが迫っていました。なので,最終的には約1年間のうち,BとCを半分ずつにすることにしました。ちなみにAはBと同じ街で,レベル的にはずっと上だったのですが,返信時期が遅かったのと,自分が志望していた教授が面倒を見れないので,別の教授になるが,それでも良いか?という内容の返事でしたので,丁重にお詫びとお断りをしました。
 かくして,2000年に,1年間,アメリカ東海岸に留学しました。
 前半はニューヨーク市立大学で,日本人の霍見芳浩先生に,後半はワシントンDCにあるジョージタウン大学で,ジョニー・ヨハンソン先生に受け入れていただきました。
 

 霍見先生は大学院では国際経営を教えられていますが,その研究や著作はビジネスのみならず,政治経済までをふくむ,とても広範なものでした。アメリカの大統領選挙のときには,いろいろな局の番組に衛星中継でゲスト出演されているような方です。
 わたしが霍見先生のもとに行きたいと思ったのは,まさにこの守備範囲の広さでした。すでに書いたように,わたしが中国というひとつの国の専門家として研究人生を閉じるべきか,あるいはもっと間口を拡げるべきか,もし拡げるとしたらどのようにすべきか,その答えを彼に師事することで得たかったのです。
 その点はヨハンソン先生も同じです。ただ,彼はアメリカの研究者として日本企業のマーケティングを研究していました。その意味では(ご本人には僭越ながら)同じような方に見えたので,いろいろお話を伺いながら,彼のこれまでの研究や,いま,そしてこれからの研究の展開を知り,自分の指針にしたいと思ったのでした。
 ふつう,留学というのは明確なテーマがあってするものだと思うのですが,いまだから言いますと,わたしの場合は自分の将来探しのためにしたようなものでした…。とはいえ,いま振り返ってそれが誤りであったとは考えていません。
 そうして1年間,ニューヨークとワシントンというビジネスと政治の中心に身を置きながら過ごしたわたしは,先生方とのコミュニケーションのなかから,おぼろげながらも「マーケティング」と「イノベーション」というものの関係に興味を持つようになりました。特に,ヨハンソン先生は,一橋大学の野中郁次郎先生と「Relentless」という本を書かれていました。この本は日本企業のマーケティングについて書かれたものだったのですが,自然と野中先生の知識創造理論に目が向くようになりました。そして,ヨハンソン先生と話をさせてもらうなかで,イノベーションの基本理論としての知識創造とマーケティングとの関係に興味が沸いてきたのでした。

 

分岐点A 国内留学

 そのような折も折,2つの大きな事態が起こりました。
 1つは2001年9月11日の同時多発テロです。わたしは同年3月に日本に帰国しましたが,その半年後にこれが起きました。もちろん,自分が少しまえに住んでいたところで起こった意味でもショックでした。しかし,もっと大きな問題はそれ以降,世界経済が後退局面を迎えたことです。これによって日本企業の具合も全体的に悪くなっていきました。景気の悪さはリーマンショックで決定的なものとなりました。さらに,日本企業は韓国や台湾,中国といったライバルの挑戦を受け,電気・電子機器を中心に,軒並み減退を余儀なくされていきました。
 「失われた10年(年の数はいつのことかによって変わりますが)」などというコトバが叫ばれるなか,「日本企業(製品)がなぜかくも競争力を失い,敗退していったのか」がテーマになってきました。ここで,イノベーションとマーケティングの関係に目を向ける必要性が自分自身,強くなりました。
 2つめは個人的事情でした。アメリカ留学から帰ってきて,1年経つとまたもや留学の機会がめぐってきたのです。こんどは国内留学でした。さすがに大学での職務上,最初は辞退したのですが,「行けるとき行った方が良い」という当時の学部トップのお声もあり,機会を利用させていただくことにしました。
 どの先生のお世話になろうか…このときまっさきに浮かんだのは,一橋大学の野中郁次郎先生でした。うえで書いたように,野中先生はヨハンソン先生と共著を書かれておりました。なにより,野中先生の知識創造理論は世界的に認められたイノベーション理論です。そして,折しも先生はその頃,知識変換プロセスのひとつとして,「コンセプト」創出に注目した研究をなされておられました。このコンセプトは,当時のわたしにとって,イノベーションとマーケティングを取り結ぶ,大事なメディアになっていると思えていました。是非とも先生のもとで研究をさせていただきたいと思いました。
 しかし,野中先生とは当時まったく面識もなく,なにより「世界の野中」に対してあまりに不躾で僭越なことではないかとも思いました。ですが,このことを大学院時代の指導教員に相談したところ,先生からのご紹介ということでコンタクトをとることをお許しいただきました。また,このときは中国に関する本を出させていただいた千倉書房の編集長(当時)の方にも,お口添えをいただきました。結果,2002年の4月より1年間,野中先生がおられた一橋大学の国際企業戦略研究科に客員として伺うことになりました。

 その1年間は,まことにもって刺激に満ちた期間でありました。
 はじめてお会いした野中先生はたいへん快く受け入れてくださり,自分の考えを伝えると,すぐにいろいろなアイディアを提案してくださりました。
 野中先生はいろいろな企業のヒアリングにわたしの随行を許してくださいました。そのヒアリングがなんとも刺激に満ちたものでした。あるときはキヤノンの本社を訪ね,当時そこに設置されていた精密機器の試作部で作業を見たり話を聞いたり,一方でキヤノン販売でトップセールスの方に来ていただき,かの有名な「辻説法」のリアルなお話をしていただいたり…。これも有名ですが,「朝会」を行っている部屋も見せていただきました。
 ホンダでは,青山本社にて,はじめて当時経営企画部長であった小林三郎さん,そして経営企画部のメンバーにみなさん,さらには朝霞研究所で若者だけで二輪を開発するという新しい試みをされていた中野耕二主席研究員といった,まことにユニークな方々を紹介いただきました。
 先生が監修をされていた,日本能率協会の「独創的高付加価値経営研究委員会」では,主査として参加をさせていただき,そこで名だたる企業の技術系責任者の方々と,半年にわたってディスカッションする機会をいただくことができました。
 ほかにもいろいろな機会がありましたが,どれもこれもが漠然としていた「イノベーションとマーケティングの関係」というテーマに,血肉をつけてくれるものでありました。そのようななかで,先生と不肖ながらディスカッションをさせていただいことは,もちろんこの上ない経験でありましたし,週末も大学に来られて本を読まれていたり,各界の要人とディスカッションをしている様子を拝見できただけでも刺激でありました。
 この1年間の一区切りになるものとして,『イノベーションの実践理論』という本を共著で公刊しました。一橋大学の大薗恵美先生,日本大学の児玉充先生との共著で,いくつかの企業でのイノベーションを,知識創造理論をベースに解釈,説明するものです。わたしはさきほども出てきたホンダの二輪開発プロジェクト(当時「Nプロ」と呼ばれていました)と,ダイキン工業の中国事業をとりあげました。後者は,以前やっていた中国ビジネスの研究を知識創造の視点から捉え直してみたものでした。

 

「イノベーションとマーケティング」―誰のためか?

 野中先生のもとでの研究は,実務界との接点の拡大・深化をもたらしてくれるもので,そこから派生的に,実務家の方に教育を行うような機会が増えていきました。また,2004年には所属する大学にビジネススクールができましたが,そこでの教育のなかで,発展的にいくつかの企業に向けて教育を行ったり,ある課題に関してディスカッションしたりする機会も増えていきました。
 振り返れば,当初はわたしから企業向けに提供できるものは乏しく,逆にわたしが学ぶことの方が断然多かったのだと思います。また,話を聞いていただいた実務家の方々からのフォードバックを糧に,つぎの機会に向けて改善していく…場数を踏むなかでPDCAを回していきました。それによって企業が直面している課題を共有し,そこからイノベーションとマーケティングの関係という,わたしのテーマにつながるパイプが少しずつできていったのだと思います。中国での経験もそうですが,実務現場からの情報こそが,思考のベースになっていました。
 さて,そうした経験を通じて,わたしが強く意識するようになったことがあります。それは,「わたしの主張は,誰に対してのものなのか」,この点を明確にすべきであるということでした。
 実務家向けの教育という場合,その多くは組織のなかの階層がかなり固定されていました。たとえば役員向け,部長向け,課長向け,入社5年目向けといった感じです。言い換えると,組織の階層をまたがった混成教育という機会はあまりありませんでした。一方で,階層が同じでも,仕事の内容はいろいろでした。たとえば,複数の事業部が混成しているとか,研究開発もいれば営業もいるといった混成はよくあります。
 ここで「誰に対してのものなのか」を意識したのは,まずは前者の「階層」でした。少し極端かもしれませんが,入社5年目の方たちに向かって経営資源の大幅な組み替えを必要とするような戦略系の話をしたり,そのツールを紹介しても,ハッキリ言って当事者はピンとこないと思うのです。自分だったら「それは事業部長以上に対してやってよ」と言いたくなると思いますし,仮にこういうことを教わったとしても,現業に戻れば立場上自分にはそんな裁量・権限もない。きっと空しくなると思いますし,使えないと思ったらすぐに忘れてしまうのではないか…?。
 もちろん,異なる視点もあります。こうした「天下国家」的なことを,できるだけ早いうちから植えてつけておく,つまり将来に向けての投資・備えとして,いまのうちに施すのだという視点です。これは間違いではないとは思います。が,であれば「なぜいまのうちに必要なのか」「自分とはほど遠い世界の話を長いこと保持しておく意味はなんなのか」,これをもっと彼らの視点に立って説くべきだと思います。「いずれ必要になるから」なんて,そんなコトバだけで人間がドライブされるのでしょうか。であればずいぶん感化されやすい(だまされやすい)ひとでありましょう。
 こうして,まずは組織のどの階層に対して話をするのか,それに応じて内容を合わせていく必要性,あるいは「なぜいまこの話が重要なのか」という理由・目的をキチッと話すことを心がけるようになりました。なお,このように,なにをするにしても,まずは目的・理由をしっかりと考え,伝えることの重要性は,特にホンダの方々ともおつきあいのなかで刷り込まれたと思います。
 もう1つ,組織のどのような職能の方が参加されるのかということでは,次第に傾向が現れてきました。それは「エンジニア(技術者)」の方に向けてという場が多くなってきたということです。といっても,ここでのエンジニアには研究(開発)部門の方もいれば,事業部での開発部門の方もいます。また,情報システムの世界になると,技術=理系という固定則はなく,文系の方がSEをされることもままあります。
 このような広い意味でのエンジニアに向けて,マーケティングの話をするという機会が俄然増えてきました。とはいえ,受講するエンジニアからすれば,「なんのために」そんなものを知る必要があるのか,やはり理由・目的をキチッと説くことが重要に思えました。
 このような,エンジニア向けマーケティング教育という実践が,実はイノベーションとマーケティングの関係について考察を深める必要性を決定づけたのでした。そこで,「なんのために」そんなものを知る必要があるのか,理由・目的としてどのようことを述べているか,ページをあらためて記してみたいと思います。

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